【特別寄稿】 巴里のピッケル

honest152006-12-06

●前回に続き、年末寄稿です。Sさんからです。


サン・ジェルマンからサン・ミッシェルの通りを特に目当てもなく歩いていた。セーヌの左岸、この一帯はカルチェ・ラタン(ラテン区)と呼ばれるように、ソルボンヌ大学はじめ文化の香り高いエリアである。シャンゼリゼの華やいだ喧騒もなく、夏の終わりにふさわしい、落ち着いた雰囲気が好ましかった。大通りのマロニエの葉もほんの少し黄ばみ始め、葉陰には膨らみを増した青い実がそこかしこに覗いている。
スイスでの登山を終え、真っ黒に雪焼けしたボロボロの顔と腕でシャンゼリゼのカフェに入るのはちょっと勇気がいるけれど、夏休みとはいえ学生らしい若者たちがたむろするここならばさほど人目を気にすることもない。そんな思惑が半分と「あなたって、何かサン・ジェルマンあたりにいてもちっとも違和感が無いみたい。ほんとに海外は初めてなの?」と、夏のはじめにパリへ着いた当初、あちこち案内してくれたパリ在住の日本女性の言葉が半分と…全ての男は女性のお世辞には弱いのだ。

若く、貧しく、まだ無名のヘミングウェイはこの界隈を根城にしていた筈だ。パリ時代の彼の短編の多くは、行きつけのカフェのテーブルで書かれたようだ。ある冬の日、いつものように、彼は原稿を書いていた。外は冷たい粉糠雨。若く美しい女がひとり、カフェに駆け込んで来る。テーブルに座り、濡れた髪を気にしながら、女はぼんやり外を眺めている。誰かを待っている風でもあった。そんな女の美しい横顔を盗み見ながらヘミングウェイはそっとこんな文章を創作ノートに書き付ける。“美しいひとよ、僕は君に出会った。僕は君を知らない。君も僕を知らない。けれど今、君は僕のもの。そしてパリの全ても今、僕のもの”、と。
若く、貧しいぼくもヘミングウェイにあやかって手頃なカフェに入ってみる。雨は…降ってこない。もちろん、雨に濡れた若く美しい女も入って来はしない。残念無念。パリは当分、フランス共和国に預けておこう。

左手のこの奥にソルボンヌ大学がある筈と曲がり込んだ通りに何やら面白そうな看板が。
漫画風の登山家のイラストに“老いた登山家の店”という店名が読み取れる。ついふらふらと入ってみると、狭い入り口からは想像できないほど広々とした店内だ。ハイキング、キャンピングから登山、スキー用品、ウエアまで品揃えも豊富なようだ。
ムッシュウ?」と、同年輩の若い店員が笑顔で近寄って来る。よし、これも何かの巡り合わせだ。ここで買ってしまおう。日本からはシベリア鉄道経由の別送で山靴、ザック、ウエアは持ち込んでいたのだが、ピッケル、アイゼンは現地でレンタル。初渡欧の記念に、できればフランス製ピッケルを1本買って帰ろうと、日本を発つ時から決めていた。

 「フランス製のピオレを見せて。シモンかシャルレの75センチが欲しいんだけど」
 「ムッシュウ、その手のフランス製品は殆どが日本へ輸出されて、当店では生憎品切れなんで…」と、店員はフランス人のお手本みたいにオーバーな身振りで嘆いてみせる。
(1973年当時も今も、ぼくは店員の言葉は事実と思っている)
 そうか、日本で買うか、と諦めかけたとき、ふと壁に掛かった一本のピッケルが目に入った。短めのシャフト。ブレードとピックをつなぐ力強い曲線。シャフトはどうやらヒッコリーだぞ。「あ!あれは?」「ウィ、ムッシュウ、これはイタリア製の新モデルで、当店でも大変よく売れておりますよ」と店員が渡してくれたピッケルを手にした途端、心の中で何かの指針がぴくんと動いた。縦走用にはちょっとシャフトが短いが、スーツケースにもこれなら難なく収まりそうだ。よし、買った!お値段は、166フラン也。
ムッシュウ、ぜひまた近々ご来店を」「いや、もうすぐ日本へ帰らねば」「それは何とも残念な」「セ・ラ・ヴィ、ままならないよね、人生は。オ・ルヴォワール、さようなら!」

 後年、このピッケルは60年代後半にアルプスの氷壁登攀で勇名を馳せたイヴォン・ショイナードとトム・フロストがイタリア・カンプ社のためにデザインしたものと知った。
90年代に入る頃、日本でも“パタゴニア”という米国のアウトドア・ブランドを見かけるようになり、何かの雑誌でパタゴニア社の紹介記事を読んで驚いた。何とこの二人こそ今や世界的ブランドとなったパタゴニア社の創始者だったのだ。
同社の社名ロゴには彼らの理念“committed to the core(本質への忠誠)”がさりげなく添えられている。