62年前の今日、岐阜市は空襲された。

honest152007-07-09

62年前、大都市が空襲された後も
地方都市への空襲が続いた。
軍事関連の施設を狙うという目的もあったろうが、
こんな地方をも空襲するのか、
という国民の中に厭戦気分を起こすのが主目的。


62年前の今日、夜11時から翌日にかけて、約1時間
135機のB29が、岐阜市焼夷弾を落としていった。
自分が子供の頃住んでいた近くの真砂町へ、最初の爆弾は落とされた。
その後、県庁、忠節橋、長柄橋、さらには中心街の柳ヶ瀬へと攻撃は続き、
街はあっという間に、焦土と化した。
長良川へ飛び込んだ人も、焼夷弾のせいで川が炎上し、被害にあったという。


死者800人強。
家屋の全半壊20,000戸。
被害者100,000人。


自分は、その頃根尾に疎開してて、無事だった。
戦争は、一般市民を無差別に巻き込む。
この岐阜市空襲を体験して、悲惨さを伝える人も、80歳を超えてしまった。
体験を伝える人が少なくなった今、
戦中派の自分も、聞き語りながら伝えていこう。


岐阜市のメイン通りは、戦争中は”凱旋通り”。
敗戦後、その通りは、”平和通り”になった。
戦争と空襲の悲惨を二度と起こさない決意の名前だったが、
今は”金華橋通り”となった。
このセンスが問題だ。
これだけの空襲を受けた約1ヵ月後、広島に原爆が投下された。


今日、9時に岐阜市の130ばかりの寺院、教会は一斉に「平和の鐘」をならす。
金華山の上り口近くの権現山時鐘楼が中心となるこの平和の鐘に耳をすませ、
平和を考えてみよう。
もうすぐ9時だ。