唖然! 金ピカの信長像が岐阜駅に出現

honest152009-10-04

JR岐阜駅前が急ピッチで整備されている。
今年が岐阜市制120年、2012年に国体という
タイミングで整備予算を取ったらしい。
外から来た人に岐阜の見場を良くしようと。
そう思うのは、反対しないけど。
出来上がった整備は、”誰だ!こんな駅前にしたのは!”状態。


駅に降り立った人は、人工地盤の歩道を見る。
その下には、バスターミナルとタクシーベー。
”ようこそ岐阜へ”という人肌感が全く感じられない。
設計者もさすがに、その事を感じたのか、「庭園」と「広場」を作った。
庭園は、ターミナルに遮られて、散策、休憩する雰囲気はない。
広場は、真ん中に噴水らしきものを作って、北西の角に信じられない物が立った。
金ピカの信長の像が立っている。


どうして信長なの?
どうして金なの?
誰が考え、決めたの?
誰が金を出したの?


この信長が岐阜の顔だと、誰が決めたの?
今国の役人の批判が続いていて、地方分権をという声が強くなってる。
地方の物事の決定システムと、金の使い方は、中央の官僚と同じように問題だ。
そのチェックシステムを作らない限り地方の官僚が、又中央と同じ事をする。


岐阜は、春”道三祭り”、秋”信長祭り”がある。
今日は、たまたま信長祭り。
天下統一の先駆けとなった信長は、歴史上の殿様ではあるが、
岐阜城を攻める時に、市街を焼けつくした残虐性も持っていた。
市民、人間の立場で立ったら、とても金ピカの信長像なんて立てられない。
地方都市として、目指す事は、市民の視線での岐阜市だと思う。
信長像の前の大通りは、戦前「凱旋通り」、戦争に負けて「平和通り」になった。
岐阜市も空襲を受けて、街が焼け野原となった。
アメリカ軍も、信長と同じように街を廃墟とした歴史がある。
その意味では、敗戦後「平和通り」とした事は、次世代へ戦争の醜さを伝えるに
恰好のネーミングだった。
それがどうだ!?  その名前が今は「金華橋通り」になっている。
これでは、次世代に歴史が伝えられないじゃないか!
地方の物事の決定システムをきちんとしないと、上滑りの短絡的な町になってしまう。